『芋たこなんきん』再放送感想まとめ ハッピーエンドの先にも生活は続く

 

 ついに『芋たこなんきん』が再放送の最終回を迎えました。せっかくなので、自分のツイートから感想をまとめておこうかな、と思いました。このドラマは、家族、仕事、恋愛、老いなど、多岐にわたるテーマを網羅していますが、今回はドラマ全体のテーマになるところを抜き出してみます。

 始まった頃から、『芋たこなんきん』の大人さに呆然としている私。

 

 私個人として、このドラマに身が入っていった週は第7週だったかもしれません。第6週が家政婦のヌイさんがやってきて去って行く週。そして第7週は昭一さんと純子さんがフィーチャーされはじめる週ですね。「いいこと」も「悪いこと」も引き受けていく、という姿勢を明確に打ち出していて、引き受けて乗り越えていく姿が大人でかっこいい。

 これは清志の逆上がりの回ですね。昭一さんが去って行って、純子さんが秘書として残ると決意してくれるところ。羅列するとそれだけだっけ?ってなっちゃうんですけれど。誰かと関わることって面倒と喜びと両方ある。面倒な中から嬉しい変化が起こることもある。新しい出会いがあったからと言ってすべてを変化させることもない。そうした問題に安易な答えがあるわけではない、というような話。ここで「変わることも変わらないことも恐れない」とナレーションが入る。シンプルながらも力強い言葉。この凄み。

 今の世の中、空気を読んで「世間にとっての正解」な振る舞いをすることを自己と他者に要求するようなところがあるように思うのですが(評価軸が他者に置かれすぎている)、この『芋たこなんきん』の世界は、自分の気持ちや意見をきちんと表明し、周囲の気持ちや意見を受け止めることが成立している(評価軸が自己にある)。こういう関係性って、出来そうで出来ない。自立した大人の世界のドラマ。

 原作って言い方ちょっとおかしいですけれど。これはドラマのモデルになった田辺聖子先生の思想なんだと思いますね。世間から見た幸福の形は世間からみた幸福でしかなくて、自分の幸せは自分で決めるしかない。選んだ人生が正解になっていく、という考え方。

 

 そして、もう一点度々リフレインされるテーマに、「特別な才能を持つ人だけが特別なことを成し遂げるわけではない」という考え方がある。

 散りばめられたシーンの一つ一つが、「すべての人生が特別な人生なのだ」と示唆していて、つまり『芋たこなんきん』は人生讃歌なわけですね。もちろん、ドラマの中で「誰の人生も特別なのよ~!」みたいなことを主人公が叫んで誰かを抱き締めるような野暮はしない。戦争前の人々の和やかな暮らし、戦時中の困難、離別が丁寧に描かれたことで、戦後の日常を生きる人々が、たくましく「特別な一生」を生きていると理解させるし、ひるがって、視聴者一人一人の人生が特別であることを優しく示してくれる。

 かように力強く生きる姿を見せてくれた主人公・町子。これ、普通に演じていると町子が「出来過ぎた」女性になってしまったと思うんですよね。売れっ子の小説家、大家族の後妻、ご近所の人にも秘書にも正しい距離感で接することが出来る思慮深い女性である町子。しかし、これが稀代の名女優・藤山直美がコミカルに演じることで、花岡町子が失敗もあり、怒りで我を忘れもする普通の人間であると成立させていたのではないでしょうか。そして、もう一点、

 実母には雑な応対をしてしまう町子、という描写が度々出てくることで、主人公の人間味を感じましたね。また、いつでも強く困難に立ち向かう町子の最大の危機であった健次郎の入院時、この母が、町子が弱音を吐ける居場所として存在するために同居を続ける決意をする、という展開に愛を感じました。物語の冒頭、町子が結婚の話をした時も「歯が痛い」とか言っていたお母さん。当初は同居を断ってきたお母さん。

 この母があっての花岡町子だった。この物語をあえて「家族の物語」として回収するならば、いつでも自立した生き方を肯定してくれたこの母と娘の物語であったかな、と思います。